金融ビッグバンと宗教—コミュニティと寺院への提言

世界における貧困、人権、環境などの問題の多くは南北問題に根ざしている。

つまり、それらの問題状況は現地の「低開発」に起因するのではなく、軍事的経済的な強者による弱者への搾取と抑圧がもたらしたものだ。資本家と科学文明が提示した「豊かさ」あるいは「発展」の尺度を、現地の政府や権力者が受け容れ、先進国にとっては安価な、自国の自然と自国民の労働を外貨に替えるという二重の南北格差が人々を窮地に追いやり、環境破壊をすすめる。そして格差は、国際的にも各国内においても、ますます広がっている。

その構造的な認識に立ち、国際経済に翻弄されない、住民自身のイニシアティブによる自立した社会をめざすオルタナティブな(別の価値観にもとづいた)地域開発が、NGOを中心に各地で取り組まれている。資金を自分たち自身で管理し、適正な技術や計画で基本的な生活基盤を築くための事業や、相互扶助システムなどを運営している。このような活動を通して、民主的な住民参加の風土と信頼関係が育ち、天災を含めた外部からの圧力に対しても強いコミュニティーが形成される。仏教に根ざしたものとして、タイの開発僧ナ-ン和尚のコメ銀行なども、その先駆的な一例である。

経済的な「力」に呑み込まれる危険をはらんだ問題として、金融ビッグバンは、日本の一人一人も、資本経済の面で地球規模の弱肉強食の戦場に放り出されるということだ。そこで原則となる「自己責任」とは、極端に言えばすべての他者を敵とする、完全なバトルを意味する。そこで、政・官・財を親玉とした巨大なムラ社会が崩壊し、「分け前」にあずかれない人からどんどん堕ちて行く。銀行をはじめとした金融機関のみならず、莫大な赤字と不良債権を抱えたこの国の財政が破綻し、行政サービスや保険、救済システムが崩壊するのも絵空事ではない。米国は国内に南北問題を抱える国とよく言われるが、「強者」の論理にぶら下がっていけば、日本もそれに倣っていくのは必然であろう。

金融ビッグバンは、WTO(世界貿易機関)の政策やOECD(経済協力開発機構)のすすめようとしているMAI(多国間投資協定)等を伴って、今後ますます人々や中小企業、自治体までを脅かしていく。自由化や規則緩和は、ある面「公」の力の低下を意味するが、これまで「公」に守られていた人々が、力の前に屈せざるを得ないということでは決してない。NGOの社会開発同様、地道でしたたかな市民の出番でもある。

例えば「未来バンク」という市民組織がある。郵便貯金や大銀行に預けたお金が、自分たちの知らないところで、南の国の人々を圧迫することや環境破壊を引き起こしていることを問題に感じ、みんなで出資して、未来や人々に余計な負荷を与えない事業、信頼できる中小企業などに貸付している。そのメンバーの一人が、「公」ではないが「共」の存在である寺院に眼をつけ、この未来バンクと伝統的な瓦寄進の制度を組み合わせ、自然エネルギーシステムを寺に設置するという市民プロジエクトが具体化しつつある。市民が地域レベルから経済のイニシアティブを取り戻すことは十分可能だ。

決して世界経済かち隔絶された箱庭経済を提唱しているのではない。開発僧たちがこころの大切さ、他者や自然との共生を基本理念に社会開発をすすめているように、力による支配に対して、人間的な信頼関係にもとづいたコミュニティーがつねに社会の基礎であるべきだと主張しつつ、草の根の市民活動から、国の政策や国際社会に訴えていく運動なのである。かつて無尽や頼母子(たのもし)講として相互扶助的金融を産み出したように、本当の意味で人々や社会を物心両面で支える寺院をめざすべきではないか。

仏教タイムズ』1998.5.14に掲載されたものです。

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