仏事Q&A


仏事と作法について、当寺院に寄せられる質問のなかで、特に多いご質問をご紹介しています。

 

お経について
A お経というと、死者のため、仏さんのためにあげてもらうもので、なんとなくありがたいような気はするけれど、やたらむずかしくて、わけのわからない、いわば「タタリ封じの呪文」と思っている人もおられるようです。

しかし、それは大きなまちがいです。そこには二五〇〇年前、おしゃかさまの悟りにより開かれた仏教の真理が集約されています。とてつもなく大きなスケールで、東洋の哲学の真髄が、様々なたとえ話や、物語のかたちをとって説かれています。ごく日常の生活から、人生の大問題まで、心のよりどころを求めるにふさわしい一大聖典なのです。

もちろんそれ自体に不思議な霊力があるわけではありません。読んだからといって、それだけでお金が儲かるわけではありませんし、女の子にもてるようになったり、ガンが治ったりするものでもありません。また、悩み苦しむ人が、努力もしないで気持ちだけでも楽になるための、薄っぺらな処世術のテキストでは決してありません。

なぜ人はベストを尽くさなくてはならないか。今、このいのちを本当に生かしていかなくてはならないんだということが書かれている、というより、この教えに出会ったなら、そうせずにはおれなくなる、そんな、心の力を養い、呼び起こしてくれることばが、そこにはあります。
(見樹院ニュース 1985年9月より)

花まつり(灌仏会:かんぶつえ)
A 仏教を開いたおしゃかさまは、今から二五〇〇年以上前の四月八日、インドのカピラバストという小国の王子としてお生まれになられました。ルンビニーというところの花園で、マーヤ王妃の脇の下から誕生すると、ただちに7歩歩んで天と地を指さし、「天上天下唯我独尊」と宣言され、これを天も祝福して、竜王の口から甘露の雨が降り注いだという伝説により、はなまつりでは、おしゃかさまに甘茶をかけてお祝いします。
お施餓鬼について(施餓鬼会:せがきえ)
A 施餓鬼会(せがきえ)とは、餓鬼道(がきどう)という世界に墜ちた亡者に食べ物を施す法要です。お釈迦さまの十大弟子の一人である阿難(あなん)尊者が修行中、焔口(えんくう)という餓鬼に「おまえはあと3日以内に死んで餓鬼道に墜ちる。その苦しみから逃れたければ、餓鬼たちに飲食を施せ」と言われます。

餓鬼道とは、欲望にとらわれた者が陥る世界で、つねに飢え渇きの苦しみに悩まされ、たとえ食物を得ても、食べようとすると、口の前まで持ってきたところで燃えてなくなってしまうと言われています。

驚き悩んだ阿難尊者は、お釈迦さまに相談して、無限の欲望を持つ無数の餓鬼たちに施すために、限られた食物を無限に増やし、餓鬼の腹を満たすための呪文を授かります。

そして、その通り行った施しは、大きな功徳をもたらし、あれほど我欲にとらわれていた餓鬼たちに感謝の心をおこさせ、阿難尊者も3日どころか、お釈迦さまの弟子たちの中でもとりわけ長生きしました。

施餓鬼法要は、このストーリーにそってすすめます。供物を無限に増大させる呪文(ダラニ)をとなえながら水を向けます。

おとぎ話のおまじないのようですが、このお施餓鬼を通してお釈迦さまは、すべての人が満たされるよう、ほんとうに食べ物を無限に増やす方法を説かれています。

それは、私たちの生き方で解決できるのだということです。

まず「足るを知る(知足)」こと。はてしない人間の欲望を満たそうとすれば、ものなどいくらあっても足りません。欲を滅していけば、ありがたさは無限に大きくなっていきます。

次に分配の問題があります。今、世界では何億人もの人が飢餓に苦しんでいます。ところが全人口が生きていくだけの食べものがないわけではないのです。

飢える人々が存在するのと同時に、東京だけでも毎日、数十万人分もの食べものが、残飯として捨てられています。飢えを引き起こす原因を私たちが作っているとも言えるのです。

お釈迦様は、すべての「いのち」は、お互い支え合っている大切な存在だから、すべてのものに限りない慈悲の心をおこすべきであると教えています。

ところが私たちは、限りある資源を、無限の欲望で奪い尽くそうとしているのです。さまざまな欲にとらわれ、みんなが先を争って限りあるモノを奪い合っているのが今の世界なのです。問題は私たち自身の中にあるのです。私たちを取り巻き私たちを生かすすべての存在、ともに生きるすべてに対し慈しみの心をおこし、私たちとの結びつきを実感しなくてはなりません。

「南無阿弥陀仏」を唱える私たちは、すでに無量の「恵み」を享けていることを心から喜び、無量の「いのち」と共に生きていることをかみしめ、勇気を持って正しい行動を実践しなくてはなりません。

私たちはこれまでに自分が得たものを、もう一度分け合うことも必要かもしれません。手放すのは苦痛だと思います。しかし、確かに限りある「もの」は、人にあげれば減ってしまうのですが、分け合うことによって、むしろ豊かに生きられるのです。

お釈迦さまが阿難尊者に授けられた教えの鍵がそこにあります。有限なものを無限のものに変え、すべてが満たされる世界。それは、奪い合う世界から、与え合う世界へと変わる、そういう生き方を伝えるのがお施餓鬼です。

お盆について
 お盆は正式には「盂蘭盆会(うらぼんえ)」と言います。これはインドの言葉の一つ、サンスクリット語のウラバンナ(逆さ吊り)を漢字で音写したものです。お盆のはじまりについては『盂蘭盆経』に由来すると言われています。

 お釈迦様の弟子の中で、神通力一番とされている目連(もくれん)尊者が、ある時、神通力によって亡き母が餓鬼道に落ち逆さ吊りにされて苦しんでいると知りました。そこで、目連さんがお釈迦様に相談すると、お釈迦様は、確かにやさしい母親であったかもしれないが、母親の性(さが)でほかの子と差別をしたこともあったため餓鬼道に堕ちた。あなたが多くの人に施しをすれば母親は救われると言われました。そこで、目連尊者はお釈迦様の教えにしたがい、夏の修行期間のあける7月15日に多くの僧たちに飲食物をささげて供養したのです。すると、その功徳によって母親は、極楽往生がとげられました、という話です。

 それ以来(旧暦)7月15日は、父母や先祖に報恩感謝をささげ、供養をつむ重要な日となったのです。わが国では、推古天皇の14年(606)に、はじめてお盆の行事が行われたと伝えられています。日本各地で行われるお盆の行事は、各地の風習などが加わったり、時期も多少のずれはあります、お正月と並ぶ「中元」に先祖の霊が帰ってくると考えられています。日本のお盆は祖先の霊と一緒に過ごす期間なのです。

彼岸のこころ
A  お彼岸と言えば墓参り。たいていの人はこういう連想をされることではないでしょうか。

『六法全書』を見ても、秋分の日は、「祖先をうやまい、亡くなった人を偲ぶ」(国民の祝日に関する法律)と  書かれているように、日本では先祖に対する行事として定着しているようです。

それはそれで温か味のある美しい風習ですが、本来「彼岸」は仏教で最も大切な、おしゃかさま直伝のキーワードの一つです。

精進(しょうじん・励む)
禅定(ぜんじょう・心を鎮める)
智慧(ちえ・本当の智恵をみがく)

という、六つの実践(六波羅蜜)を勧めています。

ですから「お彼岸」は、先祖(死者)のためではなく、今この世に生けるもの自身の修行のための期間なのです。太陽が真東から真西へ沈み、昼夜を等分する、もっとも平均的な時期に自らをふりかえり、崇高な理想、正しい願いを持って、六波羅蜜の実践をこころがけたいものです。

お布施について
A 「布施」とはその字の表す通り「広く施す」ことであり、また、見返りを求めないのが原則です。ですからお布施が多いから、少ないからといって、お経や戒名が長くなったり短くなったりはしません。

お寺(僧侶)は、お布施をもらおうがもらうまいが、可能な限り施主(願主)のために最善を尽くす、ボランティアの元祖のようなものです。もちろんお布施によって、お寺の建物や管理費が成り立っているわけで、そういう会員制クラブ(寺)とメンバー(檀家)との関係のようなものがあることも確かです。

しかしくどいようですが、布施は本来そういうものではありません。 また「布施は出す人の功徳のため」などと言われることがあります。自分自身の欲を捨てることが重要だ。だからそのお金がどう使われるか問うべきでない、という人もいますが、それは間違いです。

布施はそれを出す人、受ける人、そしてそのものが、調和のとれた関係を保つことが大切だと説かれています。ですから布施の使い道やその結果に関心と責任を持つべきなのです。

また布施によって与えるものは、何もお金やモノだけではありません。席を譲ること、やさしい接し方、励ましなど、他者に対する行為や態度も、その人の気持ち次第で布施になりうるのです。

布施が、仏教徒としてもっとも大切な徳目であるということは、一つ一つの存在はすべてのものとつながりを持っているという仏教の根本的な考えに基づき、意識的に、前向きに他者と関わっていくこと、交わっていくことによって、人間らしく生きることができるからなのです。

墓参り「ついでまいり」は本当にいけないの?
A 親戚の法事でお寺に来たAさんは、同じ墓地の中にある自分の両親のお墓にもお参りしようとしましたが、居合わせた人に「ついで参りになるから、また改めてお参りに来なくてはいけない」と言われて困っています。また出直すと言っても、いつ来れるかわかりませんし、目の前まで来て寄らないのも申し訳ないし……
お墓とか先祖のことになると、祟(たた)るとか家が滅びるとか言って、変にこだわったり、やたら怖がったりする人がいます。でも、こう言った因果関係によるタタリやサワリなどは、本来の仏教では問題にしません。ただし、先祖を粗末にする心、感謝を忘れた心はいずれ巡り巡って自分の身を滅ぼすと教えています。このことを諭す方便としてついで参り云々が言われるようになったのかも知れません。

この類のタブーについては、よく質問されることなので、ここで基本的な「ご先祖とのつきあいかた」について、一言申し上げます。地方によって、また、家によっては仏壇のところに「如在」と書いてあるところがあるそうです。これは読んで字の通り「在る(居る)がごとく」ということです。つまり、仏壇にしろお墓にしろ、そこに先祖が生きて存在すると思えばいいのです。生きている人と同じように接し、思いやりの心を持ってつきあえばまちがいありません。いつもついでばかりじゃ気を悪くされてもしかたがないでしょう。近くに来たのに素通りされたらやっぱりがっかりするのではないでしょうか。しかし、一つだけ、生きている人間と違うところがあります。
もし、本当は気持ちはあるんだけれど、どうしてもお参りできなかった、などというとき、「ほとけ」はその心を必ず、絶対、確かにわかってくれるのです。

戒名について
A 戒名は本来、正式の仏教徒に授けられる名前、つまり「仏になる(煩悩をふり払い、執着を捨て、本当に安らかな悟りに至る)」ことをめざし、教えに従って生きていく人であることを示す名前です。

仏門に入るときは、「三帰(さんき)五戒(ごかい)」を授かります。「三帰」とは、仏・法・僧の三宝(さんぼう)に帰依すること。「五戒」とは、     一、 生きものを殺さないこと。
二、 盗みをはたらかないこと。
三、 邪淫をはたらかないこと。
四、 うそをつかないこと。
五、 酒を飲まないこと。

という五つの戒律(戒め)をまもることです。

以上の「三帰五戒」を授かると、正式な仏教徒になるのです。

ここで重要なのは、その戒律のとらえかたです。たとえば「生きものを殺さない」といっても、その解釈には幅があります。最大限に考えると、人間の生命を維持していくことはできません。「そこは常識で」という甘さが許されないのが、宗教的な考え方です。そこまでいくと、現実にはとても守れそうにはありません。

しかし、日々の生活や行動において、宗教的レベルでその戒の意味を考え、自らを照らし合わせ、仏教徒としての自覚を喚起するように心掛けることはできるはずです。

それを犯したからと言って、他人から罰せられるわけではなく、あくまでも裁くのは自分自身と仏の「こころ」です。言い換えれば、犯さずには生きていけない自分を深く見つめるための戒であると言えます。

ご存じの通り、戒名には、字数とか院号、居士と信士の違いなど、いろいろ差があります。お寺や教団への貢献度、信仰の深さによってなど、それなりに理由があるわけですが、別に偉そうな戒名がついたからと言って、あの世でいい暮らしができるわけではありません。

また、仏弟子になったしるし、その寺の信徒になったしるしに授かる厳粛な名前ですから、カネで売り買いするものでは本来ないはずです。
これだけ寄付すれば、寺のためになっているのだから、いい戒名をもらって当然と言う考えもあるかも知れません。また、伽藍を維持したり、それなりに運営をしていかなくてはならない寺にとっても、それは有り難い制度かも知れません。

しかし、神聖であるべき入信の証(あかし)が、「地獄の沙汰も金次第」というような金権思想を助長しているとしたら、あまりにも残念です。正しい信仰からは、決してそう言う発想は出てきません。そしてそのことが、人々、とくに身内を亡くして悲しみの中にある遺族に不安を与えたり、寺や仏教に対する不信になるとすれば、そんなもの要らないと断言します。

戒名本来の意義を感じて、積極的に仏教徒として生きていこうという方は、いつでも「お授戒」をして、お戒名をお授けいたします。ご先祖の年回法要などおついでの折でも結構です。

その他、ご質問やご相談なども、お気軽に住職までお訊ね下さい。

年末年始の仏教行事
A  12月になると、もしかして日本はキリスト教国ではないかと錯覚しそうなくらい、街はクリスマスムードに溢れ、年が明ければ、神社仏閣に初詣へと繰り出します。平和と繁栄を支える柔軟な宗教心情ともとれますが、もっと自覚的に、正しく自らを振り返り、意義のあるスタートを切りたいものです。

12月の主な仏教行事は、まず8日の、おしゃかさまが悟りを開いた日とされる成道会(じょうどうえ)です。

おしゃかさまの悟りの意義を噛みしめ、即物的な価値観が先行しがちな生活から、真の自分の存在、使命に目覚めた人生を切り開くときです。

続いて仏名会(ぶつみょうえ)という行事があります。仏の名を唱え、一年間の自分の罪を懺悔(仏教では「さんげ」と読みます)する法要です。

そして何と言っても最大の山は、「除夜の鐘」でしょう。百八の煩悩を打ち消すと言われていますが、一年を締  めくくり、新たな気持ちで新年を迎える音色が響きわたります。

正月は、正(ただ)す月です。この年頭に当たって行われるのが「修正会(しゅじょうえ)」です。無事に新しい年を迎えることができたことを仏に感謝、報告し、新しい一年の幸せを祈願するとともに、正しい生活を誓います。

成道会(じょうどうえ)
A 12月8日は、おしゃかさまが悟りを開かれた日とされています。

2500年前、インドのカピラ城の王子として生まれたおしゃかさまは、生・老・病・死など、人々の逃れられない苦しみを解決しようと、29才で出家。6年間の修行を経て12月8日、菩提樹の下で、明けの明星の輝きとともに、悟りを開いたと伝えられています。

われわれ凡人には到底到達することはできない境地ではありますが、成道会ではこの『おさとり(成道)』を祝い、おしえ(経典)にふれ、自分を見つめ直す日です。

仏名絵(ぶつみょうえ)
A 毎年歳末に多くの仏さまや菩薩の名をとなえて、さまざまな罪や 知らず知らずのうちに作ってしまった罪などを 懺悔 (さんげ) し、身も心もきれいに なるよう祈念する法要のことです。当時院では、12月中にご予約を頂き、法要いたします。
お正月だって先祖祭り?
A 「盆と正月」というと、かたや仏事、かたや祝い事として定着していますが、もともとは、どちらも先祖を迎える《みたま祭り》だったのです。

子孫をいつも見守っていてくれて、生活活動の諸段階や祭りの場にやってきて交歓するのが、日本のご先祖様です。その中でも、まず、一年の最初の満月の夜(正月)と、一年の真ん中の満月の夜(お盆)は、古くから亡くなった人の魂が訪れて来るとされていました。

『徒然草』の中にも、
晦日の夜いたう暗きに……亡き人の来る夜とて、魂祭るわざは此頃都にはなきを、東の方には猶することて……  という一節がありますが、現在も日本の各地で、このことを示す習俗がたくさん残っています。
(見樹院ニュース 1985年11月)

法要について、住職にお会いして相談したい
A ご希望の日時をお知らせください。当院にて、ご相談をお受けいたします。   相談窓口はこちら→
>