見樹院の歴史

東京・小石川にある300年続く寺

鎖国令の出た寛永10年(1633)9月16日、丹波国(京都府)桑田郡亀山城主大給松平左近将監源成重侯が卒し、その法名を見樹院殿覚誉円徹大禅定門と称して、小石川伝通院に埋葬しました。

廷宝3年(1675)、後嗣である豊後国府内(大分市)城主大給忠昭が、見樹院殿霊位の追善供養のため、伝通院山内に、大給松平成重を開基とし、諦誉直絃上人を開山上人として迎え別院を建立、見樹院と称しました。

以後、大給家代々の菩提所となると共に、伝通院の塔頭寺院となり、明治から今日に及び、300年以上の歴史を持つ、浄土宗の寺院です。

 

伝 通 院
伝通院は浄土宗関東18檀林筆頭の名刹で、その名前は、徳川家康の母お大の方の法名に由来します。檀林とは、僧が集まって学問をする場所です。伝通院もかつては1000人規模の学僧を擁し、現在の大正大学の基礎となったと言われています。徳川関係菩提寺や鎮守、学寮としてかつては山内にあった塔頭寺院はそれぞれ独立して、見樹院の他に8つの寺院が現在も残っています。
伝通院:http://www.denzuin.or.jp/

 

大給松平成重
1594年(文禄3年) 生- 1633年10月18日(寛永10年9月16日)没  江戸時代前期の大名。
松平一生 (徳川氏の一族)の嫡男。
1604年、父の一生が死去したため、その後を継いで下野国板橋に1万石を領した。
1614年、大久保忠隣改易の連座で里見忠義が改易されると、その城受け渡しと破却に務めた。
同年冬からの大坂冬の陣では小田原城の守備を、翌年の大坂夏の陣では本戦に参加し、首級を12個挙げたという。
1617年、三河国西尾2万石に加増移封された。
1621年、さらに2000石加増され、合計2万2000石として丹波国亀山藩に加増移封された。
1626年、徳川秀忠・徳川家光父子の上洛に付き従った。
1633年9月16日、40歳で死去した。法名は見樹院殿覚誉円徹大居士。最初は深川の法禅寺に葬られたが、後に小石川伝通院に改葬されている。(ウィキペディアより引用)

 

現在の見樹院

徳川時代の後、明治維新の廃仏棄釈、関東大震災、そして戦災と苦難の時代を経てきました。

昭和に入ってから諸般の事情で寺域が縮小され、墓地がコンクリート製の堂内に納められたとき、多摩墓地などへ墓所を移転する檀家もあり、さらに昭和20年5月25日の空襲で伽藍がすべて消失しました。

終戦後は、全檀家が協力し再建に着手し、1962年(昭和37)に基地改装工事以来、本堂、庫裡等の新築など復興に努め、浄土宗開宗八百年、見樹院創建三百年に当る1974年(昭和49)の記念すべき年に、鉄筋コンクリート造りの前本堂が完成し、戦前の見樹院の堂宇以上の床面積を持つまでに整備されました。

しかしながら、その本堂・庫裏も老朽化し、阪神大震災以降の耐震基準には適合せず、また、社会や家庭の状況も変化し、寺院運営の在り方を含め、よりこれからの時代にふさわしい寺院の姿が求められるようになり、10数年来にわたり檀信徒関係者と検討を重ねてきました。

その結果、見樹院がめざす自然との調和、都市寺院として生産地との積極的なつながり、共同体運営による社会資本としての仏教寺院というコンセプトのもと、賛同する市民を募りコーポラティブ方式により、集合住宅を含む複合施設の伽藍「スクワーバ見樹院」が2010年12月に完成しました。

寺院部分は、本堂は2階席を備えた劇場空間を意識し、法要のみならず、「浄土」をめざす人々の癒しの場、発信の場として、多目的に使われています。また、書院(集会室)やミーティングルーム、ゲストルームも、集いの場、安らぎの場として人々に開かれています。

スクワーバ見樹院 建築については【こちら】

見樹院の檀信徒

見樹院の古い檀徒は江戸詰の大分府内藩士及びゆかりの人、或いは水戸屋敷(後楽園は水戸徳川家下屋敷)が近かったので水戸藩士が多い様です。いわゆる地域に根ざした町寺ではありませんが、強い縁に結ばれた人々が長く寺を支えきました。現在は、東京を中心に関東一円から全国各地に檀信徒約130軒、400数十名が、名前を連ねております。

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