厭離穢土(おんりえど) 欣求浄土(ごんぐじょうど)
阿弥陀さまがつくりあげた極楽浄土は、気候も温暖で素晴らしい環境に恵まれているだけでなく、そこに住む人々は皆、互いを慈しみ合い、尊重し合い、何も不安を感じない世界です。
法然上人(源空)は、そんな差別も貧困も争いもない国土を人々に保証した阿弥陀さまを信じて念仏をとなえることを勧め浄土宗を開きました。
時は平安時代の末期で、世の中が乱れに乱れ、天災や飢饉、そして無秩序な争いに苦しめられた人々は、絶望のなかで、阿弥陀さまの示した一筋の光に希望を見出したのでした。
救いようのない醜い世の中だからこそ、欲望や悪意に支配されやすい弱い自分だからこそ、理想をしっかり見据えて、自分にもできる正しい生き方を全うすることで、その厳しい時代を乗り越え、現在に至る歴史と文化を築いてきたのです。
現代は、そんな法然上人の時代に比べ、物質的にははるかに恵まれています。この数十年で未曾有の繁栄を遂げました。しかしその内容はどうだったのでしょうか。
家族や地域の支え合い、自然との共生に根ざしてきた生活文化が、消費という形に変わることで、他者を気にせずさし当たって便利で快適な方法で結果を得ることができ、GDPに換算されることで、経済成長に貢献してきました。しかしそれは、自然破壊をすすめ、人間関係を分断しながら、未来を蝕み、不安を増大させていることに、私たちは気づき始めています。
お葬式を例にとると、かつては親戚や隣組や町会などの助け合いで賄われていたものが、業者からサービスを買うという形態に変わりました。煩わしさから解放され、みんなが「お客さん」として乗っかっていればいいという一方、家族や社会の持っていた知恵や文化が消失していきます。
他者や社会とのつながりは、未来へのつながりでもあります。そのようなつながりを切ってしまうことで、人生、そして生きるということが、どのような未来を築いているのかという、遥かな目標を失ってしまうことが、希望を萎ませ、ひいては人生を貧しくさせてしまうのです。
私たちの生き方が、どんな未来につながっていくのか。そしてそれを引き継ぐ人々とどのようにつながっているのか。極楽へ向かうのか地獄へ向かうのか。そういう視点で、いのちの豊かさを考え直していく必要に迫られている現代です。
希望の光のその先に
正直、絶望的と思うことも少なくありません。そんな押し潰されそうな暗闇の中にも、否、その暗闇だからこそ発せられ、また気づくことのできる小さな光があります。法然上人が、末法と言われた平安末期に出会ったのが念仏であり、その先に極楽浄土があると信じたのです。
私は現代の闇である、戦争や人権侵害、環境破壊、高齢者問題、家庭やコミュニティの崩壊、等等、様々な問題と向き合いつつ、子孫に残したい未来を求める中で、たくさんの小さな光に出会うことができました。
それらは皆、覇権国家や大企業ではなく、地域で地道に、自分の手足で取り組んでいる活動です。隣人との信頼の先に平和が、勤勉の先に繁栄があることを確信できる生き方です。昔は当たり前だった生活の誇りであり、その背中を見て子どもたちは人間を学んだのです。
『見樹院ニュース』第46号より抜粋
厭離穢土(おんりえど)
〘名〙 仏語。煩悩に汚れた現世をきらい離れること。
欣求浄土(ごんぐじょうど)
〘名〙 仏語。極楽浄土を心から願い求めること。