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豊かな未来を築くために 2008.9.10

 太陽が真東から上がり真西に沈む彼岸の季節。人々は、自らのいのちの来し方行く末に思いを馳せ、祖先を偲ぶと共に、来世の幸せを願ってきました。その夕陽の先の西の彼方の極楽浄土は、先祖の住まうところであるとともに、いつかは私も阿弥陀如来によってすくい取られる先の世界。そのイメージをしっかり持ち、行くべき道を迷うことなく進むよう精進する七日間の修行期間が「お彼岸」です。
 八〇〇年前、法然上人が勧めた極楽浄土をめざして「南無阿弥陀仏」を称える生き方は、今なお私たちの信仰の拠り所となっています。そしてその教えの重要なポイントは「時機相応」ということです。時代の苦しみや問題を、自分自身の問題として正面から向き合い、冷静な分析のもとに、時代に流されることなく、自分自身の信念に基づいて今できること、すべきことを見極めたのです。争い、貪(むさぼ)り、そして愚かな人間であるという自覚の中から、完全無欠の極楽浄土をめざし、念仏信仰を確立したのでした。
 その精神を以ってしたとき、現代人として具体的にどのような現在と未来を考えていけばいいのでしょうか。

 私たちの世界は、今、様々な問題に直面しています。地球温暖化をはじめとする環境問題は、人類のみならず多くの生命を取り返しのつかない危機に陥れています。そしてその原因をつくってきたのは、人間の営みに他なりません。
 私たちの快適で便利で、ものが有り余るような生活。エネルギーを浪費し、次から次へと使い捨てていく生活に、何となく「マズイんじゃないか」と感じている人は多いのではないでしょうか。
 しかし、それでも周りがみんなそうやっているのだし、えらい政治家や学者たちもいて決めていることだから何とかなるのじゃないか、大企業がめざましい技術力を以って、そのうち解決してくれるはずだ。と、思っているかもしれません。
 あるいは、どうせ自分ひとりがどうこうしても、始まらない、がんばったところで何も変わらないと、あきらめてしまっているかもしれません。
 しかし、どんなに絶望的と感じられたとしても、それを乗り越え変えていくことができると信じて、冷静な状況認識の上にやるべきこと、できることを今、しっかりやっていこうという意志が、法然上人の念仏の精神です。
 今回の見樹院の計画は、いのちを尊び、未来を信じる人々のネットワークで、地球と未来を豊かにするプロジェクトです。

 この計画は、単に見樹院の設備を新しくするということにとどまらず、今後も大きく変化するであろう社会状況をも見据え、子々孫々の時代まで、見樹院が私たちの心の拠り所として継続・発展し、さらには家庭や地域、日本の文化を守り、国土や地球環境を守っていく事業です。そしてその実践がいのちを尊び、エネルギー需要を減らし、人間関係を豊かにし、あるべき平和な未来社会に続く実感を伴うものになるはずです。

 まず、百年の定期借地権の設定は、百年先の未来への責任を意識したものであるとともに、三百年以上の見樹院の伝統の上に新たな文化を築いていこうという心意気を共有するコミュニティへの期待でもあります。
 シックハウスによる疾患や、アトピーや化学物質過敏症に配慮し、99・9%化学物質を排除した素材として、木材はすべて国産の無垢材のみを使用します。それは日本の森林とともに日本の伝統技法を保存再生する活動の一環です。徹底的に健康で省エネのつくりは、長寿命でランニングコストが低く、価値の高い社会資本として蓄積されます。
 寺というみんなの財産だからこそ、みんなの未来をより確かで安心なものにするものでなければ意味がありません。

 私たちが、今この時代、この東京で暮らす生き方が、未来や世界と、こうしてつながっているという意識を持って、あらゆるつながりあるいのちの幸せと平和を願って生きていくことができれば、私たちすべてのいのちを祝福し、すくいとってくださる阿弥陀如来のみこころを、芯から感じることができるものと確信します。
 見樹院の檀信徒と、新たな見樹院の伽藍に集うコミュニティの人々とともに、そういう願いを世界に発信する「総本山」を築いていきたいと思います。

 なお、入居者(住宅購入者)の一般募集に先駆け、見樹院関係者には優先的にご相談を受けています。ご関心のある方は、お気軽に住職または総代・世話人にお声掛け下さい。

極楽浄土への道−−見樹院建築計画への思い 2008.6


子孫に残すべき未来

 法然上人の浄土宗を含め、鎌倉仏教の歴史的意義は、何と言っても、それまで貴族や僧侶など限られた人々のためだった仏教を、民衆のものにしたことです。拝んでもらう宗教から、自ら念仏や題目を唱え、座禅を組む信仰へ変わったことです。それは宗教の権威に支配されていた人々が、自分の生き方や未来を切り開く主体になった、まさに宗教「改革」だったのです。未来に続く自分の生き方を、自分が選べるという希望を得たのでした。
 私たちは、子孫のためにどのような未来を残したいのか。そしてそこに至るにはどのような一歩一歩を歩むべきなのか。
 私たちの先祖は、過酷な歴史を乗り越え、様々な困難を克服して今日の発展に結び付けました。その恩恵を受けた私たちは同時に、多くの教訓を学びました。そして今、様々な課題を突きつけられています。

希望の光のその先に

 正直、絶望的と思うことも少なくありません。そんな押し潰されそうな暗闇の中にも、否、その暗闇だからこそ発せられ、また気づくことのできる小さな光があります。法然上人が、末法と言われた平安末期に出会ったのが念仏であり、その先に極楽浄土があると信じたのです。
 私は現代の闇である、戦争や人権侵害、環境破壊、高齢者問題、家庭やコミュニティの崩壊、等等、様々な問題と向き合いつつ、子孫に残したい未来を求める中で、たくさんの小さな光に出会うことができました。
 それらは皆、覇権国家や大企業ではなく、地域で地道に、自分の手足で取り組んでいる活動です。隣人との信頼の先に平和が、勤勉の先に繁栄があることを確信できる生き方です。昔は当たり前だった生活の誇りであり、その背中を見て子どもたちは人間を学んだのです。

お金に支配されない生き方

 石油が高騰し、あらゆるものが値上がりして大儲けしている人がいます。一方、ワーキングプアや自殺者の問題が示すように、賃金は低下し、福祉の後退や年金の不安が人々を苦しめます。格差の拡大は暴力的な支配関係の強化を進めます。
 お金というのは、経済の流れを効率化し、限られた資源を有効に使うための道具だと言う人もいます。しかし現実は、貯めこんで支配するための武器になり、また、高く売るため、あるいは安く買うために、大量の資源がムダになります。
 たくさんのモノに囲まれながら豊かさを実感できないのは、それらがさらなるモノ、つまりお金を必要とさせるからです。車を持てば、ガソリンや車庫など維持費がかかり、電化製品が光熱費を引き上げ、買換えや廃棄にますますお金がかかります。世界中で、商品作物を作るようになった農民が、機械や農薬を買うために出稼ぎするのと似ています。そういう私も情けないことに、このキーボードをたたきながら、ビル・ゲイツの蟻地獄にはまっていたりします。
 便利になっても楽にならず、ますますお金のために働かされ、振り回され、挙句、地球を壊し、あらゆる命を脅かし、絶望をもたらすのです。

百年後を見据えたチャレンジ

 これから見樹院がめざすのは、そういう悪い輪廻から解脱することです。
 一つのヒントとして、私たちは、本来、お金に頼らなくても生きていける資産をもっていたことです。ものを作り出し、身の回りのものを活用する技術や知識もそうですが、隣近所があれば警備会社に払うお金は要らなくなるという意味では、信頼も資産です。
 お金に頼り、結局お金に支配される悪循環を脱し、本当に有益な、有形無形の社会資産を積み上げるのが、見樹院の役割であり、人々に支えられた寺や教会やモスクやってきたことです。

 法然上人の八百年を迎えるにあたり、百年後を見据え、確実に極楽浄土へ向かい、単なる癒しではなく、永遠の救いにつながる、持続可能な寺にするために、様々なチャレンジをしていきます。皆様のご理解とご協力をお願い致します。


厭離穢土 欣求浄土

 阿弥陀さまがつくりあげた極楽浄土は、気候も温暖で素晴らしい環境に恵まれているだけでなく、そこに住む人々は皆、互いを慈しみ合い、尊重し合い、何も不安を感じない世界です。法然上人(源空)は、そんな差別も貧困も争いもない国土を人々に保証した阿弥陀さまを信じて念仏をとなえることを勧め浄土宗を開きました。
 時は平安時代の末期で、世の中が乱れに乱れ、天災や飢饉、そして無秩序な争いに苦しめられた人々は、絶望のなかで、阿弥陀さまの示した一筋の光に希望を見出したのでした。

 救いようのない醜い世の中だからこそ、欲望や悪意に支配されやすい弱い自分だからこそ、理想をしっかり見据えて、自分にもできる正しい生き方を全うすることで、その厳しい時代を乗り越え、現在に至る歴史と文化を築いてきたのです。
 現代は、そんな法然上人の時代に比べ、物質的にははるかに恵まれています。この数十年で未曾有の繁栄を遂げました。しかしその内容はどうだったのでしょうか。
 家族や地域の支え合い、自然との共生に根ざしてきた生活文化が、消費という形に変わることで、他者を気にせずさし当たって便利で快適な方法で結果を得ることができ、GDPに換算されることで、経済成長に貢献してきました。しかしそれは、自然破壊をすすめ、人間関係を分断しながら、未来を蝕み、不安を増大させていることに、私たちは気づき始めています。

 お葬式を例にとると、かつては親戚や隣組や町会などの助け合いで賄われていたものが、業者からサービスを買うという形態に変わりました。煩わしさから解放され、みんなが「お客さん」として乗っかっていればいいという一方、家族や社会の持っていた知恵や文化が消失していきます。
 他者や社会とのつながりは、未来へのつながりでもあります。そのようなつながりを切ってしまうことで、人生、そして生きるということが、どのような未来を築いているのかという、遥かな目標を失ってしまうことが、希望を萎ませ、ひいては人生を貧しくさせてしまうのです。

 私たちの生き方が、どんな未来につながっていくのか。そしてそれを引き継ぐ人々とどのようにつながっているのか。極楽へ向かうのか地獄へ向かうのか。そういう視点で、いのちの豊かさを考え直していく必要に迫られている現代です。


禅定−−いのちと未来を大切に生きる文化を

 この夏の暑さ、地震、そして台風と、自然と天候に苦しめられた数ヶ月でした。この経験を通して、あらためて地球温暖化の深刻さと、その原因ともなっている近代文明への不安と疑問を痛感しました。
 そんななかで私の背筋を寒くしたのは、昨年の日本の二酸化炭素の排出量が削減目標を達成できなかったことに対し経済界から、「環境も大切ではあるが、経済成長を止めるわけにはいかない」というコメントが出されたことです。つまり、「命よりカネが大事」だと言うのです。それを日本のリーダー的立場の人が堂々と言ってのけ、それをニュースで聞いたことに、大変なショックを受けました。
 そして、これを平気で言わせてしまう世の中を変えていかなくてはならないと、強く感じました。
 ところが、多くの人は、「そうは言ってもしかたがないんじゃないか」とか「あんな偉い人たちが言ってるんだから大丈夫なんじゃないの」というあきらめや妄信、「別にさし当たって自分は困ってないから」という無関心といった反応です。
 環境問題は、かつて公害問題と言われた頃とは違い、様々な要因が絡み合っているだけに、普通の人には複雑すぎて判断がつきにくいですし、普段は消費したり、ボタンを押すだけで享受している私たちの便利で快適な生活が、実際はどのようなしくみになっているかは見えにくいのが現実です。
 しかし、重大な危機が迫り、今一瞬も大変な危険と隣り合わせに暮らしていることも、紛れもない事実なのです。それより現実に被害を受けている人、犠牲になっている命があることに眼を向けなくてはなりません。

 「お彼岸」とは、此岸《迷いの世界》から《覚りの世界》に到達するための修行の七日間というのが、本来の意味です。苦しみや不安から解放されるために、布施・持戒・忍辱(にんにく)・精進・禅定・智慧という六つの徳目の実践が勧められます。この秋の彼岸は、その中から「禅定(ぜんじょう)」に注目したいと思います。
 座禅や瞑想のことですが、心を落ち着け、「我(が)」を超えて、みんなの幸せのために深く思いを廻らせることです。

「思考停止」を脱するために

 今の時代、情報はたくさんあるようですが、深く考えると言うことが少なくなっています。テレビは、めまぐるしく変わる画面の中で、強烈なイメージを植えつけていきます。新聞や雑誌などの活字情報も、そういう文化に慣れている人々向けの構成になっています。そして、メディアという権威、あるいは頻繁にそこに登場する人のことばを無批判に受け容れてしまいます。若い人々ほどその傾向が強いと言われています。
 何が大切なのかと言うことへの感覚も麻痺しています。重大なことより面白いことが優先します。環境や外交や重要法案の審議など、命と未来にかかわる問題よりも、ワイドショー的な話題に視聴者はチャンネルを合わせ、本質や原因を追究しない「思考停止」した人々は、論理より好き嫌いで判断しています。
そうやって人々を支配しているメディアは、スポンサーで成り立っています。ですから大企業に不利な情報は流れにくくなります。少なくとも直接的に環境を破壊しているのは、人々の生活様式より、圧倒的に企業活動です。今、企業の社会的責任が求められ、それも宣伝につながることから、植林事業などをPRするCMを眼にすることがあります。しかし、実はその事業が、現地の社会にマイナスの影響をもたらしている事例を私はいくつも見ていますが、当然ながらそのことは伝えられません。
 企業がいけないと言っているのではありません。企業は利益を上げることが、株主に対する使命ですし、そのためには競争に勝たなくてはなりません。
 そういう企業が、本当に良い製品をつくり、社会に有益な事業を行うようなるには、私たちがもっと目利きになり、何を買い、使い、どういう生活をし、何に一票入れるべきか、よく考え、判断することなのです。

(2007.9「見樹院ニュース」第46号)